暗譜(by たま) [歌うことについて]

アマ・オケのヴァイオリニストである友人が、先日ツイッターで、全盲の管楽器奏者のことを書いていた。もちろんアマチュア演奏家なんだけど、指揮者の何小節の何拍目という指示で即座に吹き出せるという。肉体の目で楽譜を見ることができなくても、頭の中にはその人独自の楽譜がきちんと描かれていて、いつでも参照できる状態なんだろう。その人は、普通の指揮で、ちゃんと頭出し出来るらしく、全身が音楽空間受容器官みたいになっているのかな、と思わせる。
このあいだ、さんこちゃんが自作の曲を披露してくれたときにも、楽譜はなくて、自分の曲だから楽譜がなくても大丈夫なのよ、ということだった。そういえば、五月の連休にホール・オブ・ホールズでやっていたミニ・コンサートでもピアニストが自作の曲を披露してくれたけど、楽譜はなかった。かなり長い曲だったので、展開だけでも、よく憶えていられるもんだなと思ったのだが……たぶん、弾く時々で細部はいろいろ変わるんだろうな。
楽譜というのは、だから一面、覚え書き(メモ)みたいなもので、もしも作曲者の気分で変化することができるというのであれば、楽譜はころころと変わるのかも知れない。何か、これが決定的というものがあるわけでもないだろう、というのは、小説などの文芸分野でもそうだし、美術でもそうだからで、アートはおしなべてそういうものなのだと思う。
けれども、できあがった作品を手に取る我々に、それしかなく、それを金科玉条のように扱うほかない。それでも鑑賞するのでも演奏するのでも、自由は大幅に残されている。それもアートの特質である。
だから、演奏者が暗譜をするということは、作曲者が頭に楽譜を入れているのとは、まったく違うことなのだと考える。私たちは、楽譜をそのまま受け取り、覚える時には、楽譜をそのまま覚える。音、強弱、表現の指示すべてをそのまま。
けれども、音楽を演奏することは、その先に待っている。楽譜を受け取ることは、いわば小説の字面を目で追うことだ。ただの理解だけでは、本当の感動は得られない。自ら感情移入することがなければ。しかも演奏は、小説を読むよりもはるかに能動的で、深い行為であって、楽譜を本当に自らのものとすることがもとめられる。その証拠に読書家は市井の人だが、演奏家はそれ自体で価値を認められており、プロとして活躍することも可能なのだ。
暗譜は、音楽を自分のものにする一過程に過ぎない。だから、それを前提条件として練習をする。これはごく当たり前のことだ。けれども、一方で、私たちは、自分の歌いたいレベルに合わせて、趣味的活動を行っているのに過ぎない。だから、音楽をどこまで自分のものにするかということも、各自の好みにゆだねられている。



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