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講評 [歌うことについて]

西尾先生より、お言葉をいただきました。

14人という人数でよくやった。
一番よかったのは信長さんのステージ。八ヶ岳の時よりずっとよい。声も前に出ていた。
次が松下さんのステージ。残念なのは、信長さんのステージほど、声が前に出ていなかったこと。きれいなんだけど、声がまとまっていないというか。全体的に後半の方が声がよく出ていた。それから、速くなる聴かせどころで,言葉が聞こえてこず、曖昧に終わってしまったのはよくなかった。曲を知らない人にはわからないだろうが……。
そしてピアニストがとてもよかった。萠に合っていると思う。合唱とピアノに一体感があった。
三番目がルロイのステージ。今までにない感じで、殻を破ったという気がする。一般の人にはこのステージがいちばん受けただろう。
アカペラはよくなかった。いつも萠はアカペラがよいのに,今年はピアノ曲の方がよかった。
ただ、アンコールの「花」はよかった。

こんな感じでした……西尾先生ありがとうございました。
コンサート前に出来が不安だった順に評価が低い(笑)。そういうものなのですね。
AtoBeさんのくれた名言集に「練習以上のことは出せない」というのがありましたが、まったくその通りだなと。
やっぱり練習あるのみでしょう……

歌への愛情 [歌うことについて]

たまです。
昨日、休み時間に田中さんと話していて、大事なことを聞いたので、書きとめておきます。

歌い慣れてくると、逆に歌が乱暴になってしまうという現象についての話です。
ロビーコンサートの頃のブログにも書きましたが、音が取れてアンサンブルができてきて、さて、さらに曲想を、という段階で、逆に細部への目配りが薄れ、乱暴になってしまうということが起きます。
「歌い慣れ」てきたら、より神経を歌の隅々まで届かせることができそうなものですが、いったいどうしてこういうことが起こるのでしょうか。
新実先生にも言われたことですが、歌への想像力が足りないのではないか私は思うのです。

田中さんは、それはその曲にどれだけ愛情を注いでいるかということだ、と言いました。
愛情!
私たちは、歌の一つ一つを、もっともっと慈しまねばならないのですね。
曲への愛を忘れたら、私たちのような素人の合唱団は、本当に情けないものになってしまうように思います。

合唱団のスタンスはいろいろだと思いますが、愛を忘れぬ合唱団でありたいと、私は考えます。

録音 [歌うことについて]

たまです。
レコーダーを買ったので、昨日の練習を録音してみた。
指揮者はこれを聞いているのか、と愕然(笑)。

何が悪いって……音が取れてない人がいる。
昨日は、ボイトレで脱けたり、早く帰ったりした人がいて、おおむね、233だったでしょ。
この人数だと、一人でも音程が狂うともうパート内で合わなくて、がたがた。
ハーモニーどころではない……。声がそろう以前に音がそろわない。
暗い、下がる、というより、もう間違えてその音を取っているのではないか。
いまだにさぐりながら出る感じで、ピンポイントでその音が出せない。
とにかく、音程を何とかしないと、先へ進めない。
指揮者は曲想をつけてくれているのだから、音の方は、自分たちで何とかしないと。

どういう練習が効果的なのか、みなさんも少し考えてください。

それから、練習はやはり録音すべき。
私が採って、みなさんに配信してもかまわないのだけど……みなさんのPC環境が分からないので(ケータイにはたぶんこういうものは重くて送れないと思う。)

音程のこと [歌うことについて]

音程が悪い、音が下がる、というのを再三注意されました。特にメゾです。
あらあら、いずこも同じ? メゾが下がることには何か意味があるのでしょうか。中音域は、チェンジで出しにくかったりするのでしょうか? あるいは気楽に出せるから地声がまじって下がるのかな。

ともあれ、音程が悪いのは、メゾだけではありません。皆さん悪い。
●下がるところは、皆さん響きの下の方で音を取っていらっしゃる。音が暗いのです。響きの上の方の音を取らねばなりません。
●次の音へのイメージが足りない。下からずり上げたりしたのでは、絶対にもう低くなってしまいます。
●同じ音が続くと、下がるし、一音の中でも下がっていきます。それは支えが足りないのですね。
●それから、声を押すと低くなります。もう四度ぐらい愚痴りましたが、初日、隣に座った方が、それなりの声なのだけど、押した歌い方で、音程が超絶的に乱れまして、大変でした。きれいに出せる時はずっときれいなんですけど、乱れ出すとあっという間に半音ぐらい平気でずれます。とにかく気持ちが悪く、「ああっもうっ」という感じでした。響きで歌わず、押してしまうと、音程は狂います。フォルテで出すと狂いやすいですよね? そういうときは、つまり喉で押してるんですね。狂うと、自分では収拾が付けられない。周りを聞いて合わせて欲しいのだけど、そういう人はたいてい自分の声しか聞いちゃいないのです。
●多人数で歌う、ということは、無理せずにフォルテが作れるということで、押す危険性も低くなるから、音程も安定します。下手に頑張ると、音程は狂うわけです。でも、萠は少人数で……だから、とにかく発声をきちんとして、押した歌い方にしないようにしたいですね。
●新実先生には、うわずったら褒めてあげると言われましたが、だいたい下がるものなんですね。ハイテンションで高音を歌うと、うわずり気味になることがありますが、中音域では下がるのが普通のようです。だから下がってもいいというわけではありませんので……なんとか音程を安定させたいですね。バードの練習は、それにピッタリです。音程を安定させる練習を重ねていきたいと思います。

長くなりました。たまでした。




合唱フォーラム・その他の指導 [歌うことについて]

岸先生の発声練習での注意、また新実先生の全体的な注意を書いておきます。
簡単に言うと、指揮者にいつも言われていることばかりです。萠の弱点は、合唱における一般的な弱点だということがよくわかりました……。

【岸先生】
軟口蓋を上げ、鼻孔に響きを集める。
姿勢を良く(胸を上げて肩を上げない、あごを引きすぎない)。
音は遠くへ。引っ込ませたりこもらせたりしない。
★岸先生の名言〈揺れない、遅れない、ぶら下がらない〉

【新実先生】
貌がだらっと下がって暗くならない。
フレーズの最も高い音の発声で、低い声も歌う。特にアルトは地声に落とさず、高音を歌う声を、そのまま低声に持ってくるように。
歌い出す前に、ちゃんと音のイメージを持つ。いきなり歌うのではない。
音楽は記憶の芸術である。前後を忘れては音楽にならない。
楽譜にしがみつかない。
指揮者を見る時に、漫然と見て見たつもりにならない。大事な指示だけ見落とさなければ良い。
★新実先生の名言〈歌詞に対して何らかのイメージを持て。どんなイメージでも良い。何も感じないというのが一番悪い。〉

ほかにもあったと思います。書き足してください。






暗譜(by たま) [歌うことについて]

アマ・オケのヴァイオリニストである友人が、先日ツイッターで、全盲の管楽器奏者のことを書いていた。もちろんアマチュア演奏家なんだけど、指揮者の何小節の何拍目という指示で即座に吹き出せるという。肉体の目で楽譜を見ることができなくても、頭の中にはその人独自の楽譜がきちんと描かれていて、いつでも参照できる状態なんだろう。その人は、普通の指揮で、ちゃんと頭出し出来るらしく、全身が音楽空間受容器官みたいになっているのかな、と思わせる。
このあいだ、さんこちゃんが自作の曲を披露してくれたときにも、楽譜はなくて、自分の曲だから楽譜がなくても大丈夫なのよ、ということだった。そういえば、五月の連休にホール・オブ・ホールズでやっていたミニ・コンサートでもピアニストが自作の曲を披露してくれたけど、楽譜はなかった。かなり長い曲だったので、展開だけでも、よく憶えていられるもんだなと思ったのだが……たぶん、弾く時々で細部はいろいろ変わるんだろうな。
楽譜というのは、だから一面、覚え書き(メモ)みたいなもので、もしも作曲者の気分で変化することができるというのであれば、楽譜はころころと変わるのかも知れない。何か、これが決定的というものがあるわけでもないだろう、というのは、小説などの文芸分野でもそうだし、美術でもそうだからで、アートはおしなべてそういうものなのだと思う。
けれども、できあがった作品を手に取る我々に、それしかなく、それを金科玉条のように扱うほかない。それでも鑑賞するのでも演奏するのでも、自由は大幅に残されている。それもアートの特質である。
だから、演奏者が暗譜をするということは、作曲者が頭に楽譜を入れているのとは、まったく違うことなのだと考える。私たちは、楽譜をそのまま受け取り、覚える時には、楽譜をそのまま覚える。音、強弱、表現の指示すべてをそのまま。
けれども、音楽を演奏することは、その先に待っている。楽譜を受け取ることは、いわば小説の字面を目で追うことだ。ただの理解だけでは、本当の感動は得られない。自ら感情移入することがなければ。しかも演奏は、小説を読むよりもはるかに能動的で、深い行為であって、楽譜を本当に自らのものとすることがもとめられる。その証拠に読書家は市井の人だが、演奏家はそれ自体で価値を認められており、プロとして活躍することも可能なのだ。
暗譜は、音楽を自分のものにする一過程に過ぎない。だから、それを前提条件として練習をする。これはごく当たり前のことだ。けれども、一方で、私たちは、自分の歌いたいレベルに合わせて、趣味的活動を行っているのに過ぎない。だから、音楽をどこまで自分のものにするかということも、各自の好みにゆだねられている。



歌は芝居 [歌うことについて]

カワシマです。
わたくしが派手な服を着るのは、若い頃にデブすぎていろいろな服が着られなかったという怨念もあるのですが、基本的に化ける道具です。女装しているという感じですね。化粧が嫌いなので、そちらでは化けられないため、派手な服で女装するわけです。
女性状態は一種の演技であります。
で、歌もやはり、演技の一種で、芝居に近いものじゃないかと思うのですね。

例えば、キリスト教的な宗教曲の始まり——というより、なぜ教会で歌を歌うのか、ということですが、これは教会の定義付けとしては、天使の真似ごとなのですね。
天使は神を讃える存在です。讃歌を歌っているとは聖書には書かれていませんが(ホザンナとは言ってますけど)、そういう解釈がなされて、天使の歌の地上的再現としてグレゴリオ聖歌のようなものが発展していくわけです。「天使の歌声」とは、教会音楽の理想状態であるわけです。
教会の典礼自体が、天上の真似びだとされている。歌はその一部です。それが独立して、音楽が目的化していくわけですが、宗教曲の場合には、いつもどこかで天上の歌声のイメージがリフレクションしています。
天使の気分になって神を讃える。これも一種の芝居でしょう。
日本人で、キリスト者でなくとも、同じような気分を想像することはできるし、その気になることもできます。瞬間的にでもその気になれれば、真実とあまり変わらないです。

指揮者が、今度受難曲を振りますけど、もともとこれは受難劇という芝居ですね。オペラじゃないけど、まあオペラみたいなものです。大昔は芝居と言ったら宗教劇ぐらいしか許されなかったわけで、受難劇は定番中の定番です。で、芝居ですから、やっぱり歌は演技です。単に音楽的に正しければ良いというものではない。芝居になっていなければ。つまり、セリフを完全に憶えて、位置も振り付けも正しくても、その役が生きられていなければ芝居にならないように、歌の感情も、自分のものにしなければならないということです。

もちろん、第一に技術が大事で、それがなければ、気分だけあってもまったくどうしようもないのですが。思い入れだけたっぷりの大根芝居ではどうしようもない。
今は、とりあえず、技術的な問題の方をクリアしたいという思いの方が、わたくしは強いです。
けれども、歌は芝居だというとらえ方について、少し考えても良いのではないかとも思ったのです。今日の、あまりにもがさつなラターを聞いて……。

アンサンブルの楽しみ [歌うことについて]

こんなことを夢想しました。

ながさかコミュニティホールは平日の午後いっぱい借りると、7000円です。練習使用なら4900円。
そういうところで(舞台の上で)、内輪だけの小コンサートを開く。ロビーコンサートと合唱の輪の間の冬頃。
定演でやる曲だけではなく、少人数に分かれて、いろいろなアンサンブルを楽しむ。
コーラスだけではなく、オペラの曲をやってみたり。
そういうようなことができるといいのになあ。

練習方法について [歌うことについて]

カワシマさん、いつも楽しみに読ませていただいています。
それから毎回の練習内容を書き留めてくださっているみなさん、感謝です。
齢のせいにはしたくないけれど、週一回の練習で得たものを
次週の練習まで覚えていることは、難しくなりました(汗)
練習をお休みした時なども含め
こうして思い起こすことができるものがあると助かります。

みなさんは今までのブログの内容を振り返ってみたことはありますか。
これだけの想いを曲に反映させたら、どんなに素晴らしいことかといつも思います。
みなさん、もっと自分の力を信頼してはいかがでしょう。
自分たちの力で息を揃える、和音を響かせる、曲を作り上げる
難しいかもしれないけれど、そういったことを
もっと積極的にやってみようではありませんか。
前にも書いてくださっていますが、指揮者に合わせることに集中していると
一人一人感じ方が違うために全体が合わないことがあるようです。
今までは指揮者対自分の縦の関係を意識していることが多かったかもしれません。
それと同時に、これからは団員同士の横の空気の流れを
もっと敏感に察知してみてください。
普段からまとまりのある団ですから、きっとできないことはないと思うのです。
(五味佐)からの提案でした~

講評 [歌うことについて]

合唱祭でいただいた講評です。
清水雅彦先生
〈「私の青空」明るく楽しい、そして伸びやかな歌声、青空のような爽やかさですね。先生の作る音楽も確実。レガートとマルカートの対比、アーティキュレーションも最高。欲を言うと、もう一歩透き通るといいなあと思います。それは二曲目でも同じで、本当に柔らかく美しい女声合唱を聴かせていただけて幸せな反面、時々、響きのポイントが下がってしまう時があり残念。輝きが失せてしまうので注意。下降形やAの母音に特に気をつけて下さい。それにしても心配りされた上質な音楽、ありがとうございました。〉

 清水先生は、全団体にこのような好意的な講評を書かれたのだろうなと思います。「良いところを見つけるのは簡単」だとおっしゃっていたので、萠にも良いところを見つけて下さった。
 依田先生は、この講評を読んで、やはり声の問題だと。ちゃんと体を作って、きちんと響く声が出せているのか。ずっと言われ続けていることだし、本当にそれが基本だと思いますけれども、なかなか難しい。それがクリアできたら、萠はまったく別の合唱団になれるでしょうね。

澤田洋一先生
〈「私の青空」イヤー歌い始めは何ですか?——青空の出る前なので、はるか彼方から聞こえてくるように! とても楽しそうに聞こえるが、重要なものが欠けている!! それは青空です。青空をもっと出して。指揮無しの二曲目。全員で合わせることや調和することにはとても気を使っているようですね。それだけでなく、もっとここぞというところにメリハリを持って歌い上げましょう。やや音楽作りが甘い!!〉

 澤田先生は各団体にこのような丁寧な講評を下さったらしく、熱意に頭が下がります。好意あふれる講評に感謝の気持ちで一杯です。
 定演後の課題の一つに、私たちはあまりにも指揮者に頼って他のパートを聞いていない、というものがありました。アンコンでも合唱祭でも、今はもとにかく互いを聞き合い、パート内でまとまり、さらに全体が調和するということを目指して練習しています。まだまだ不足しているとは思いますけれど(実際に出遅れたり、ずれてしまったりしたところがありました)、そういうところを見ていただけて、とても嬉しいです。
 そんな状態なので、音楽を作るところまで、まだ道は遠い感じ。でも、少しずつ前進していけたら……。来年も澤田先生のご講評がいただけたら嬉しいです。

 ほかの団のみなさんも、講評を寄せて下さいました。ありがとうございました。
 「楽しそうに歌っている」というご意見が目立ちました。その一方で、「表情をもっと楽しげに」とアドバイスして下さった方もありました。「表情」は、私たちにはとにかく欠けている点なので、意識はしているところです。「さわやか」というご意見もいくつかいただきました。本当に爽やかだったのならとても嬉しいですね~なにしろ依田先生には、やぼったい「青空」と言われていましたから(笑)。
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